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展覧会テキスト_髙山瑞

「灰色の□□」

文字や絵や記号などの線に関心を持っている。
それらは二次元と呼ばれる平面に定着したオブジェクトではあるが、
そこに三次元的な奥行きを感じる。
線をかく筆が、面の手前で上下するように、線も面の奥で上下する。
私はそこに鑿を使い、少しばかり確かな肉付きを与える。

今回の個展「灰色の□□」では2次元と3次元を往復する存在を小説・漫画・アニメーションの
表現に見出し、その姿を木彫によるレリーフに取り入れている。二次元にあるものが三次元へ
来ようとする瞬間、あるいは三次元にあるものが二次元へと没入することにより両者が同期・
融合する瞬間を取り入れ、物語の流れから切り離された線と余白が互いに白でも黒でも無い灰
色にある姿を提示することを試みた。

漫画やアニメーションは、一つの絵があり一つのコマがあり、それが連続することで物語に成
る。文字と文章の関係と同じで、文字ひとつひとつの連続が、言葉や物語が紡ぎ出してゆく。
しかし物語の一部である一枚の絵や一つのコマを切り取って単体でそこに提示し、その物語を
知らない人が見たならば一体何を伝えたいのかどんな物語なのか理解することは簡単ではない
。それは初めて見る記号のように、ただの絵になってただの線と余白になる。物語の流れから
切り離し、線の状態に戻したものを木に彫り刻むことで、一文字を一つの言葉をじっくりみる
ように、ワンシーンをじっくりみるようにそれらを扱ってみたい。 奥行きを圧縮して彫る制
作法ではなく、線と余白の揺らぎを板材に彫ることで、意味を持つものに変化する不思議、あ
るいは別の記号に変化してしまう可能性を模索している。

髙山 瑞

□ 引用作品

「灰色の本」

高野文子の漫画作品『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』2002年刊行。

田舎で暮らす女子高校生・田家実地子が、学校の図書館で借りた『チボー家の人々』全五巻を
ゆっくりと読み進めていく様子を描いた作品。本に没頭する実地子は日常の中で気に入ったフ
レーズを呟き、いつしか主人公の少年チボーと言葉を交わし、小説内の抵抗の集会に参加し、
そして当たり前のように本のある生活を続けてゆく。やがて衣服の仕事につくことが決まった
実地子は小説内の革命の仲間に別れを告げ、「エピローグ」を読み終えて図書館に本を返却する。

『黄色い本』の作り方について高野文子は、ネームは絵の形で描いていき使えると思った部分
を四角くハサミで切って床に並べ、入れ替えしながらコマ割りをしており、「9コマすべて均
等に1秒ずつ見てもらうような仕組みにした」と証言している。その軽快で小気味良いコマ割
りが何ページかつづいたあとには、たっぷりとした大きなコマが使われているページが現れ、
急に時間の流れが緩やかになる。それが如実に現れたページを今回の作品プランで抜粋してい
る。このコマの前のページでは主人公・実地子が夜、布団の上で本を開き段々と本に没入して
ゆく様が描かれている。そして実地子とジャックは完全に重なり合い、二次元と三次元のちょ
うど中間に存在するような、白でも黒でもない灰色になる。三次元にあるものが二次元へと没
入することにより同期・融合する瞬間である。物語全体を通して実地子は「現実」と「虚構」
の区別をつけていながら、同時に共存させている。本の中でも、小説の没入感は際立って特別
なものである。

文字(物語)が読者を侵食し、文字(物語)も読者に侵食されて、文字である線と、読者とい
う立体とが互いに飽和状態になる。その様子を平面とも立体とも言い切れないレリーフとして
彫り出してみようと計画した。膨らみはあるものの、ここでは文字も実地子も吹き出しも同じ
土俵に立っていて、互いにフラットでしかし形がある。

「灰色の羊飼い娘」
「灰色の煙突掃除の青年」
「灰色のシャルル5+3+8=16世」

ポール・グリモー監督作品『王と鳥』(Le Roi et l’Oiseau)、1980年公開のフランスのアニメ
ーション映画。原作はハンス・クリスチャン・アンデルセンの「羊飼い娘と煙突掃除人」。
暴君とされる王は、城の最上階にある秘密部屋内の壁にかかった絵画に描かれている羊飼いの
娘に恋をしていた。しかしその羊飼いの娘は、娘の横にある絵画に描かれた煙突掃除の青年と
恋に落ちていた。二人が手を取り合うのを見て暴君の理想の姿に描かれた王の肖像画も動き出
し、自分と結婚するように言うが、娘は王の結婚の申し入れを拒否する。王と結婚させられる
前に二人は煙突を登って外の世界へ逃げ出すが、娘を連れ戻そうと王は城中を追いかけ回して
、大暴れの末、国家全体の土地であり国そのものであった城は崩壊する。

『王と鳥』に登場する羊飼いの娘と煙突掃除の青年は、自らの意思を持って絵画・平面という
枠から出ようとする。羊飼いの娘と煙突掃除の青年は互いの手に触れるため、腕を絵画の枠か
ら差し出す。それを発見して王はいかんと絵画に掛かっていた布を摘み、その隙間から睨む。
それぞれ最初に動き出すシーンを選出した。本来鑑賞する側の者であるはずの実在する王は、
絵画に自分の像がいなくなっていることに驚き必死に警察を呼び出そうとするが、王は自分が
理想とした姿である絵画の自分自身に処分されて、取って代わられる。

二次元にあるものが三次元へ移動しようとする瞬間に働く力は、それが強い目的(手を繋ぐ・
邪魔をする)を保有していたとしても、あまりに強引なものである。本来あり得ない現象であ
りながらも実践されてしまった脱出劇は、作中最後に「城(国家)の崩壊」という代償を支払
うことになった。しかし城とは権威の象徴物でもあり、その崩壊とは制約からの解放を示すと
も捉えられる。つまりこの物語において崩壊する城とは、主人から逃げ捨てられてしまった額
縁たちの分身でもあるということである。城という制約からの脱出場面を抜粋する本作は、そ
の強引な力によって次元の城壁を揺らがせる瞬間を定着させようと試みる。

「灰色の正方形」
「球」

〈1〉 E.A.アボット 著『二次元の世界―平面の国の不思議な物語』 講談社 (1977) 高木茂男 訳
〈2〉 E.A.アボット 著『フラットランド たくさんの次元のものがたり』 講談社 (2017) 竹内 薫 訳
フラットランド 多次元の冒険(Flatland: A Romance of Many Dimensions)は、エドウィ
ン・アボット・アボットの小説である。1884年刊。二次元の平面世界を舞台とした風刺小説。

二次元の国に住んでいる主人公の「正方形」はある日、夢の中で一次元に行く。一次元の住人
に自分の住む二次元の世界を理解させようと説明を試みるが、失敗に終わる。そして平面世界
に戻った正方形の元に、今度は三次元の空間世界から球が現れ、二次元世界のこと三次元の存
在の理解を求める。

展示作品「灰色の正方形」では球が正方形に対して放った一文を抜粋し引用している。今回引
用したのは『二次元の世界―平面の国の不思議な物語』(1977) 高木茂男 訳〈1〉であるが、
『フラットランド たくさんの次元のものがたり』 講談社 (2017) 竹内 薫 訳〈2〉の別訳も比
較するとよりわかりやすいので以下に記載する。

〈1〉-141頁
「あなたが“立体”と呼んでいるものは、本当は表面だけです。また、あなたが“宇宙空間”と呼
んでいるものは、実際には広大な平面に過ぎません。わたしは宇宙空間にいます。そして、あ
なたが外側しか見ることのできないものの内側を身を見下ろしています。あなたはこの平面を
離れることができるのです。ただそれに必要な意欲がわきさえすればよいのです。わずかに上
昇したり下降したりする動きだったら、わたしの見ることのできるすべてのものを、あなたも
見ることができ得るのです。」

〈2〉-109頁
「個体と呼んでいるものは、本当は薄っぺらなのだ。君が空間と呼ぶものは、平面なのだよ。
私は空間にいて、君には外側しか見えないものの内部を見下ろしているのだ。君も必要な自由
意志を奮い起こせば、この平面から抜け出せる。ほんの少し上か下の方へ動けば、私に見える
ものが、君にも見えるだろう」

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